昭和43年11月5日  朝の御理解



  御理解第54節「徳のない間は心配する、神徳を受ければ心配はない」
  私共は、まあ厳密に言うと絶えず心配をしておるわけですがね、徳のない証拠です、ね、「先はどんなになるか分からない」と、そういう不安が、言わば心配の元になる、安心しておるようであっても「まあどうとかなろう」と、といったような、まあそれも厳密に言うと横着な心が、あの安心のようにあるだけ、「神様にこれだけお縋りをしとるとじゃからどうとかなるが」と、そのどうとかなろうけれども、そこから生まれてくる安心というものは、あ~あまりもの安心、ね、言わば、何て言うか、言わば横着な安心だと、それこそ、え~、「神徳を受ければ心配はない」とおっしゃるのですから、神徳を受けての安心、私共が目指さしてもらうものは、とこはね、神徳というのはならどういうような信心をさして頂いたら神徳が受けられるだろうかと。
  道教えの大綱のところに、「疑いを放れて広き大道を開き見よ、わが身は神徳の中に生かされてあり」という、わが身は神徳の中に生かされてある、言うなら私共は神徳の中に浸っておるのである、ね、神徳の中に浸っておりながら神徳が頂けてない、頂けない、ね、ここんところを一つお互いが不思議に思わなければいけないと思いますね、神徳に中に生かされてある、神徳の中に浸っておる私達、御神徳の中に、「わが身は神徳の中に生かされてあり」と、言うならば、もうここに御神徳があるのだから、御神徳のつかみ取りが出きらなきゃならんはずです、浸っておるのだから、ね、それを頂けんところにあくせきとしたり、不安、競争、ね、もう不思議に有り難いことにこうやって、え、朝参りでも一生懸命さして頂いておりますとですね、確かにその御神徳に頂いてはおらんばってん触れて行きよるですね、ですから何とは無しに「おかげなる、おかげになる」そういうようなものが、心に底から湧いて来るんですね、どういうような場合にあっても「おかげになる」、それはその今までおかげを受けてきておりますからねお互いが、あのような難しい時でもあんなおかげを頂いてきておる、だからこのような場合でも、「おかげになる、だろう」とまあ、おかげになると信念をしきっていないにしても、「おかげになるだろう」と、そういう思いが段々強くなってきて、え~、まあ言うならば「どうとかなるが」と、安心しておるようにあるわけです、いやそれでもまあおかげですけども、ここで言う、あの54節に言う、「身に神徳を受ければ心配はない」というところ、ね、ですからこうやって朝参りでもさして頂いておると、御神徳を受けさして頂くために、なら良い、言わば環境と言うか、ね、御神徳を受けさして頂く、う~、もうすぐ身近なところ、側なところにあのあるようなわけです、ね、これを、間違えますと、お互いが「わが身は神徳の中に生かされてあるのだから」と、ね、まるっきり自分達がもうその神徳を、おぉ受けておるように錯覚して、ね、おるような場合がありますけれども、なら事、いざと言う時になってくると、不安であり心配であるところから見ると、それを受けていない、理屈の上では分かっておるけれどもそれを自分の身に心に頂いていないということが分かる、身に心に頂かなければね、やっぱおかげにならん。
  どうぞもう一つこんなおかげを頂きたい、ね、心配がない世界、不安のない世界、そこに住まわせて頂く、信心を頂きたい、そういう信心をだから目指さして頂きたい。
  昨夜、あ~、まあ昨日はいくつも会合がありました、昼は先生方の会合ですね、神愛会がありました、それから夜は、あ~松栄会、それで、久留米の、久留米支部の共励会、でその中でまあ色々、え~、まあ良く考えてみると、ん~まあお互いが神徳を受けさして頂くための信心っ信心の、お~修行と言うか、信心の共例、まあ言うなら、「神徳を受けるためにはどういう修行さしてもらったら良い、どういう信心さしてもらったら良いか」というような、まあことに結局はなるわけなんです、まあそれを一つ一つ拾うてみますと、昨日丁度十一時頃から、神愛会が、五・六人でしたからもう私の、私のじゃない、あの~、茶の間でしました、こたつのある、茶の所で、とう、途中で私が、もう私の(?)じゃ出けんと言うお取り次ぎを願う方があったもんですから、ねぇこちらへ出てきておりました、内にまあ、若先生を中心に、まあ色々話し合いを進めておったわけです、それでここでお届けを終わって、え~、またあちらへまいりましたらその話しがあっとりました、「とにかくお互いがお取り次ぎをさして頂く立場、もう実にそれは至難な事、難しい事なんだ、人が取り次ぎ助けられるということは、もうこのようにそのもう難しい事はない」と、というような話し合いをしてるんですね、お互いにそうです、これは合楽だけではない他所の先生方がそのおられるから、やはりそういう話しが出る、お取り次ぎという事は実に難しい事なんだ、どうしてじゃ信者が助かるかと言うこと、なら私、その、まいりましてから、「あんたどんがあの人が助かるごたと言うなんてんけれども(?)助からん」と言うて、ね、「そんなこっちゃなかよ」ね、「問題はねあなた方一人一人が助からなければ駄目なんだ」ね、お取り次ぎさしてもらう先生方が助からなければ駄目なんだと、丁度、大阪の泉尾の教会の例が出ておった、あっちあたりではもう、とにかく御祈念の、この御祈念をしておる御祈念の言葉の中にはもう御祈念成就じゃない、神願成就神願成就という、もうこれがもうずーっと繰り替えし唱えるそうですね、神の願いですね、「神願成就神願成就」という、「ならその神願ということはどういうことだろうか?」と、「神の願いということはどういうことだろうか?」と、「そりゃあ世界真の平和であろう、世界の総氏子の助かりであろう」とこう言うわけなんです、で私が申しました「とてもとてもいくら私共のごたる不徳の者がですね、世界真の平和を願ったところで、世界総氏子を願ったところで、何千年何万年経ったっちゃそれは出けんばい」っち私言うた、世界総氏子の助かりと、世界真の平和と、それは私共がやっぱり、その、お~、この世に生を受けておる人間として当然そうありたいという願いは持っておる、ね、この世を極楽のようにです、っとに争いのない喜びだけの生活、それこそ(?)の中に住もうておるような、ね、いわゆるそのパラダイスです、この世パラダイスの、お~願いを、これは誰だって持つけれども、実際は不可能なんだってそういうことは、ね、だからそれよりも自分の心の中にパラダイスを開かにゃいかん、どういう例えば戦争がありよろうが、どういう例えば難儀な事があろうが、あっておろうがです、その難儀の中に世界の、そのそういう争いの中にでもです、私は助かりがあるんだと、ね、終戦直後のあの、お~、それこそお先真っ暗といったような時代にでも、信心によってやっぱり明るい安心の喜びの生活をしておった人もあるのだ、ね、ですから問題はね、私は私自身がどのような中にあっても、どのような中に放り出されておっても、私自身の心の中に安心があり、喜びがあり、光を持った生活ということが、そこで私は神願成就と、私は意味は分からん、泉尾の教会の先生、ミヤケって言うね、ミヤケ先生が言うておられる神願成就っちいう意味は私には分からんけれども、神様が願いというのは、御神縁を頂いた信者私共一人一人が、真実の助かりを願い求めて、自分が助かっていくこと、いかにも自己主義のようであるけれども、まず自分が助かっていくこと、取り次ぎをさして頂く先生がまず助かること、でなからなければ取り次ぎ助けるということは不可能じゃなかろうかと、不可能だと、ね、金光大神のお徳によって取り次ぎ助けれるのだけれども、その金光大神の取り次ぎを邪魔せんですむ、ね、取り次ぎ者にならにゃいかん、そこで私はお取り次ぎをさしてもらう時に、「私が邪魔になるようなことがあっちゃならんとまず願う」と言うて、話したことでした、ね、これもやはり、まず私自身が助かる、私自身が御神徳を受ける以外にはないのだということなんだ、ね、そこでなら、御神徳、その御神徳を受けるということはどういうことかと、ね。
  松栄っ、え~、夜の御祈念がすみましてから、松栄会の(?)ところで、まあ一言気付く事を話さしてもらった、昨日松栄会の方達が全員が集まっておったから、19か、12名、12名集まっておった、その12名の者が、あ~、おおせつ間で共例をしておられた、ね、そして御祈念すまして、なにっ、何から、何かの、いつも私は、え~、その松栄会には入りませんけれども昨日はちょっと話さし、入らして頂いたんです、たら、もうあの急き詰めて話し合いをしておる、タバコを皆が飲みますもんですから、もうタバコの匂いでもうむんむっするような中でやってるわけです、そしてあそこは7人しか入られませんもんね、おおせつ間は、ですから食堂の方から細か椅子を持ってきてとる者もありゃぁ、座っておる者もありゃぁ、もう7人だけは座ってから、椅子に腰掛けてやってるわけなんです、「どうしてこういうようなこと、あんた達はおおせつ間を使うか」と私が、「ようこのおおせつ間で信心の共例が出来るな」って私が言う、ね、「椅子に腰掛けとる者は良かろうばってん、細か椅子に腰掛けとかなならん者、座らんならん者があるじゃないか、何故あの広々とした共励殿があから、共例殿でしないか」と私が、ね、「例えばこうやってもの一つ書かせて頂くでも、膝の上でこう書かにゃんじゃない、共励殿ならちょっと机の前に銘々が座って出来るのに、しかもこれだけ明々とあそこを点け、外も点けなんけん、これだけの沢山の電気を点けなんじゃないかと、あんた達がどげなん素晴らしい良い共例が出けて友の徳を受けたところで、これだけでも半分はもうなくなるよ」っち私は申しました、ね、「まあ今晩はもうせっかくこうしとるけん、雰囲気を壊しちゃいかんから、今晩はここで続けて良いけれども、今月から一つそこんとこ考えなきゃいけないよ」ね、「例えば徳を受ける稽古を一生懸命さして頂きながらですよ、ね、そして方やには、徳をまた戻してしまうようなことではいけんじゃないかと、ね、お徳を受けられた例えば安武先生あたりの場合なんかとても、皆が電気を点けて後ろからずーっと消して回りござったげなと、決してケチ、ケチな考えじゃないって、私もそうだって、だからもしあなた方一人一人がですよ、うんなら新たなお客さん、あのを連れてくるとか、私へのお導きでもして、お茶でも上げるという時には、どうぞどうどうと使うて下さい、けれども一晩あんたどんがここで共例をするのに、この雰囲気が良いから、気分が良いからです、そげなことで共例が出来るはずがなか」って、ね、「御神徳を受けなければならない、御神徳を受けたいと言うて稽古しながら御神徳を半分、また返して行くようなことでは、これは(?)にはならんよ」と私、と言うて私は、昨日秋永先生が、昨日ですから、昨日の晩ですね、に、御神夢を頂いたというお届けを例にして話したんです、昨日その御祈念の後に、秋永先生がお届けをさして頂く、そこに親先生もおれば久富先生達もござるごたる、どうもこの御神前である、実際この御神前にそういうことは出来るはずはないんだけれども、ずーっとこの神饌がなされておる、お供えがなされておるそのお供えの向こうにですね、このわら束がお供えしてある、ところがそのまあそういうようなことではいけんというようなことかなんかでしょう、その親先生が私に、秋永先生に馬乗りになってそのまあ秋永先生をセッカンしておる、叩きよるような、叩かれよるような、その状態のお夢を頂いたとこういうわけなんです、で私は秋永先生に昨日、ね、「主人の事は家内が願い家内の事は主人が願いであるから、もうそれとひっくり返すと家内の事は、家内の御無礼は主人お詫びし、主人のお詫びは家内がお詫びをしていく」というような意味のことであろうと同時に、今朝の御理解ですよ」と言うて私が申しました、ね、わらと言やぁどういうことかと言うと還元ということですよね、もう前に還元というね、私共がこうやって、お百姓さんが一生懸命作って作物を作ると、そのからだけは天地に返していけというわけなんである、これが還元である、ね、天地に対するお返しである、例えば秋永先生が、例えて言うならばです、ね、例えて言うならば秋永先生がよ、ね、これだけの信心が出けておるじゃないかっち一家を上げて、これだけの言うなら神様に対する還元が出けていきよるじゃないかと、おそらく合楽一番の還元者としておかげを頂いて行きよる者がです、ね、馬乗りになって私からセッカンされておるということはどういう意味か、これだけの信心が出けておるのに、その信心を、ね、言わば昨日のそれと同じ事、あんた達に話し合うた事と同じ事、と言うて松栄会にね、せっかく信心、神徳を受けなければならんという信心の話し合いをしておりながら、言わばお徳を削るような、ね、私は決してなら、細まか(     ?    )の元で共例せろと言うのじゃないよと、ね、けれどもねそこんところの考え方がつかなければせっかくの信心の徳が半分に削られてしまう、ね、これだけの神様へ対するところへのしっ、言わば奉仕と言うか、還元が出けてながらお叱りを頂いておるという事はどういうことなのか、と言うて私はその先日の事を話したんです。
  昨日私達は長瀬さん所の柿がりにおまいを受けて秋永先生達も夫婦でおかげ頂いた、私はね、あの必ずあのどころコウバ寺だいのお寺さんでいつもお茶頂きます、そこに(?)に腰掛けて、まぁあの(見る紅葉を快勝?)させて頂いたわけです、ところが私共も参りましたもんですからその、お茶が出たんです、ね、あちらのお婆さんがお茶を4・5人、まあ(?)ではあるけれどもお茶ね、お茶菓子を添えて出して下さったわけなんです、ね、そこでです、そこで立ち上がりぎわにもう先生方はもう先に階段登っ、山さへ登っておりましたから、私と(?)と繁夫さんと残っとったから、もうこうただ立ち上がるとには気の毒な感じがしたから、ね、(?)少しも置かしてもらおう、ところがお金がないから、秋永先生からお金をちょっと金借りてこう、「金を百円貸して下さい」と言うて、私が借りにあった、ところが秋永先生が「もうしときました」っち言うんです、「もうあの二百円あそこにちゃんと分かるようにあそこへ置いときましたから」っち「はぁそんならすることはいらんな」と、と言うて私共はお世話になったというて、まあ一つ言うて帰ってきたけれども、まあここんところばいっちょよ~考えてくれ、私は百円お茶代を置こうとしとるけれども、秋永先生は二百円置いてきとるよとこういうこと、そりゃぁもう今時の二百円と言うて、それは笑うかもしれんけれども、ね、私にとってはその大する、まあ例えば少ないかもしれんけれども、少ないと思うとが修行と思いなさい、ここんところの場合は、ほんなこた二百円ごたするごとあるばってん、まあ百円でしましとこうと、そこんところを修行と思うて百円を置いて、私は百円を置こうとしておるのに、秋永先生は二百円置いてきとるよと私が、ね、こういうところがねせっかくのこれだけの信心がでけ、これだけの還元が出けておるのに、またごしになってセッカンされない元がそこにあるのだと、ね、これが百円と言い二百円だから、たった百円の差だけれども、これがなら百万円になってごらん、二百万円になるよと私が言うた、そうでしょうが、ね、それが百円だったから倍でも二百円ばってん、それがなら百万円っちいうごたるなっと今度は、二百万円私が百万円お茶代ば置こうと思いよるとに秋永先生が二百万円置いてきたっち、「はぁこれは百万円も置いてきて」っちこと、余分に置いてきてっちいうことになるよっち私、「こういうところがねあんた方の生活の上にもありゃせんか」っち私が言うです、こと神様の事にはあんた達がどうでもこと、なら裸になって還元したっちゃ、それが生きるおかげを頂かれるけれども、ね、ここんところ一辛抱出来るというところに辛抱せずにそういうことをするところに私はせっかくの還元がです、還元さして頂きながら、お叱りを頂きよるといったようなことじゃったら、ね、そこで家内が使いすぎるところは主人がお詫びを、主人が(?)するところは家内が詫びれて、私はそういう意味で昨日秋永先生に言うたが、「あんただんこの意味が分かるか」っち、さあ百円のお茶代、それ二百円秋永先生が置いてる時には分からんばってん、私が百万円、百万円と二百万円とりょうしたら「ほぉうほんなこそうですな」っち言うごたる顔を皆がしとるわけですよ、ね、一銭に笑うなら一銭に泣くです、ね、せっかくのこれだけの御神徳を頂くための還元が出けておるのにですよ、還元が出けておるのにまたその御神徳がバァっと持ってかえるようなことが、うんなら私共の上にありゃぁしないかと、ね、そういう意味で私は、本当に心しなければならないことがある、あんた達は平気でうんならこのおおせつ間を使って信心の共例をしよるが、ね、私せっかくの信心の共例が、御神徳を頂くための話し合いが、ね、薄いものになってしまったんじゃ惜しいから、まあこれから心掛けなきゃいけないよと言うてまあ話したことでした。
  それからまあ十二時も近かったでしょうか、久留米の共例会から、山戸さんと勇さんが帰ってきた、それであそこでお茶でも頂きながら、まあお話しを聞いたりさして頂いたりさして頂いたんですけれども、「今日はっにその集まりが悪うございました」っち言う、「それでもう勇さんとにかくあなた方がね、本当にあの、車、あんた達はまあ自動車で行くけれども、久留米あたりまでもお話しに行って、そして誰ん聞きてがなかっち言うなら、本当にがっかりしようごたるけれども、本当に私の話しを一人でも良い聞いて下さる人があるなら、(?)の道を遠いと思うちゃならん」と私が言う、と言うて私は二十年前の私の修行時代の話しをさして頂いたことでしたね、私が、あ~、おおせきになりますかね、クリラさんでしたかね、椛目から北野へ話しに、ねそしてあそこからずーっと金島、大関を、の金島を通って大関の一番手前のあそこは、え~、何とか、ソメじゃ、ソメって言うとこかね、まであのお話しに、そして帰りは、かたのせの橋を渡って蜷川から常持さん出てきて椛目に帰りよった、これは自転車がその頃ないけん歩いてからじゃった、けれどもね、それは北野に行くたんべんにこう回ってくるお話しに行くわけなんだ、たった夫婦が目の病気で二人休んであるのです、コリヤさんて言うあの山下弘文さんの三方までしたという方なんだ、ね、だからそこへ私がそのお話しに、それも始めの間はもう受け付けられんじゃったけれども二辺行き三辺行きしよる内に段々私の話しを聞かれるようになって、喜んで、言わばおかげを頂いて、え~夫婦共おかげを頂いてから、う~、られた話しを私はするんだ、ね、まあ椛目から北野そしてから金島、大関通ってかたのせ、蜷川、常持、帰る時一回りしてくるんですけん、やっぱ汝という道をですね、しかも夏の暑い頃じゃったがやはりやらして頂きながらです、向こうは助かる助からんは別として、あの時分に自分自身が育てられとったということを思うんだと私は、ね、だから勇さんでも山戸さんでも、お話し行ったばってん向こうには誰ん集まっとらじゃったと言うて一人でも二人でも本当にあんた達のその熱意を受けて下さる人があるなら、それでへこたれてはならんよ、一生懸命、そして今は分からんけれども後で気付くことはあの時分に山戸さんあんたどんが信心が育てられとったのと話し合えるようなおかげを頂かにゃいかんと私が言う、ね、そういうような信心、人が一人でも助かってくれるならば、喜んでくれるならばということを、三里四里の道を通してもしないでの、私は生き方の、そういうような生き方の中にです、何時の間にか自分が育てられておるということは何時の間にか、自分が徳を受けておったと、徳を受けたと言うならあの時分に受けたであろうと思われるようなおかげを頂かなければいけん、「三人で、四人でんええ、例えばあんた達がお話しに回って、ね、聞いてくれる人があるなら、ね、それを有り難いと思うて行けるようにならにゃ、有り難いとなかなか思えん、ね、そこんところを一つ修行さしてもらわにゃいけんよ」と言うて、まあ言うたことでございますけれども、今日の54節から頂いてね、「徳のない間は心配する、神徳を受ければ心配はない」神徳を受ければ心配はない、その神徳を受けるために、ね、御神訓の中にある「疑いを放れて広き真の大道を開き見よ、わが身は神徳の中に生かされてあり」私共は神徳の中に生かされてある、ね、神徳の中に生かされてあるということを疑うたら駄目だ、神徳の中に生かされてあるんだと、ならその神徳を今度は頂くためには、ね、どういう信心さして頂いたら良いかということを私昨日の会合の三つの事を、ね、例を取ってお話しをいたしましたですね、せっかく神徳を積む、こうやって神徳を頂かしてもらう、心配せんですむおかげの頂けれる信心の徳を受けようとして、一生懸命なら、秋永先生の場合なら還元がどんどん出けておるのにもかかわらず、反対の方へ還元のならないところに還元しておるようなことが馬乗りになってお叱りを頂かなければならんようなことになっておる、惜しいじゃないか、あんた方が今日ここでこうやって共例をしておるけれど、ね、言うならばここは禁煙室、と例えば私が思うけれど、そこで青年会のあんた方がここに、ここで信心の共例をするということはもっての外、ね、それも、ね、(?)でも、なら丁度7人ぐらいというならまだしものこと、10、名者何人かの者は座ったり細か椅子にかけてせんならんていったような事であんただん気分が良かろうはずがないじゃないかと、せっかくの信心の徳を積みよるとがそれによってだけでも私はガバッと削られる思いがする、私はもう神徳を積んでおるのに、家に帰ってからガバッとそれをまた天地に戻してしまうようなことはありよらんだろうか、ね、神愛会の方達にお話しをいたしたように、人が助かるということは難しい、難しい、おかげを頂くという事は難しい難しいって、ね、だからそげなことよりもです、あんた達自身が助からなければいけんのだと、世界真の平和、世界総氏子の助かり、なるこそ神の願いに違いはない神願に違いはないけれども、ね、どういう中にあっても助けっ、助かっておれれる、ね、御神縁を頂いておるまず銘々が、本当に助からなければ、先生自身が助かることのために精進せよと、ね、そこには一番最後にその、ね、山戸さんと久富さんにお話しをいたしましたようにです、ね、一生懸命の御用なら御用、奉仕なら奉仕がです、本当にあの時分に私達が徳を受けたであろう、育てられておったと分からして頂くような、言わば奉仕のしぶいあり方にならせて頂くということがです、私は「神徳を受ければ心配はない」とおっしゃる、神徳を受けていくということは、そういうような中から私は受けられるんだと私は思うのです、ただおかげを頂くためにどれだけ信心さしてもらっても、その信心がやはりおかげでも(ちょうじょうしなって?)おるような気がするでしょうが、ね、取り残りというものはない、ね、「神徳を受ければ心配はない」とおっしゃるのでございますから、ところが私共はです不安である心配であると、「いいやどうとかなろう」と言うて心配しませんと言うけれども、厳密に言うとそれは横着の場合が多いって、本当の安心じゃない、神徳を身に受けての安心じゃない、と気付かして頂いたら、本気で神徳を受けていくことの信心が一つなられなゃいけん、神徳を受けるためにはならどういう信心をさして頂いたら良いかというところに焦点を置いて、ね、神徳が満ち溢れておる中に生かされておるのですから、それを頂くということは、こちらがその気になれば容易である、出来るのである、いわゆる誰もがおかげを受けられる、誰でもがお徳が受けられるとおっしゃっておられるのですから、ね、受けたものを返し、受けたものを返して、堂々回り的なことではなくて、ね、それを受け貯めていかなきゃならん、そして心配せんですむというところまで、神徳を高めて行きたいもんだと、これもう私自身もそれを思っておる、ね、私に不安がないか心配がないかとそんなことはないのです、夕べもしきりに心配になることがある、「はぁ本当お徳受けとらん証拠」と思うのです、ね、かれ夕べ皆を送り出してしもうてから、私一御神前に出らして頂いて、神様からあることを、またお知らせ頂いたら、そしたら安心が出来る、ね、でなかったら眠うても眠られん、ね、なら神徳がないからそうして不安である心配なのでございますから、お互いがその心配する心で神様へ打ち向かい、「心配する心で信心せよ」とおっしゃるのですから、あ~その心で神様へ打ち向かうと同時に、その打ち向かい方がです神徳を受けていけれる一つ生き方、打ち向かい方にならにゃきゃならんと思うのです。                                                        どうぞ。